死体を池に沈めたおじさんの話
実家の近くに、なんともいえない大きさのため池がある。
数年前、毎日そのため池を見に来るおじさんがいた。
ほんとうにずっとため池の前にいるんじゃないかと疑うくらいに、いつそこを通りがかってもおじさんに出会うことができた。
なんなら、おじさんはキャンプ用の椅子を持ってきてじっと池を見つめていることもあった。
何の変哲もない道端の池の前に長時間佇む妙齢の男性の姿は、なんだかただならぬ雰囲気を醸し出していた。
おじさんの人相が元々悪かったのと、池を見るときの顔がさらに険しかったのも相まって、いつからかわたしとお母さんは、あのおじさんは誰かを殺してあの池に沈めたんじゃないかという仮説を立てた。
妄想はどんどん膨らみ、奥さんを殺したんだとか、重りをつけて沈めたものの何かの拍子で浮いてきやしないか気が気じゃないんだとか、話はどんどん飛躍していった。
そのうち、わたしとお母さんはそれが自分たちで作り上げた妄想だと言うことを忘れ、おじさんはほんとうに人を殺したのだという前提で話をするようになった。
現実であっても夢であっても妄想であっても、近所のため池の底に死体が転がっているなんて、怖いような、でもなんだかちょっとわくわくするような、不思議な感覚だ。いつもため池とおじさんのことを考えるときは、まるで嵐の前日のような気分になっていた。
わたしはそのあと大学生になって引っ越して、ため池のこともおじさんのこともすっかり忘れてしまった。
帰省した際に前を通って思い出すことはあれど、もうおじさんに会うことはできなくて、おじさんもまた死んでしまったのではないかと思った。
昨日、はじめてため池の前を歩くことがあった。
今まではずっと、車で通りがかるだけだったのだ。
久しぶりに、おじさんのことを思い出した。
おじさんがしていたみたいに、池を覗いてみた。水はすごく濁っていて、底は見えそうになかった。死体も見つからなかった。
それでもじっと見つめていると、大きなまっくろい鯉が泳いできた。それから、あっという間に何匹も鯉が現れて、餌を頂戴な、というふうに皆揃って口をぱくぱく動かしていた。
そのときわたしは、ああ、おじさんは鯉に餌をあげにきていたのだ、とやっと気がついた。おじさんの目的は、沈めた死体の確認なんかではなかったのだ。
心の中で、すごく丁重に謝った。優しいおじさんが知らないうちに殺人犯に仕立て上げられていたなんて、可哀想すぎる。申し訳なかった。
暫く時間が経っても鯉たちはまだ餌を貰うことを諦めていなくて、ずっと口を動かしていた。
餌を持っていないわたしは、なんだか気まずい気持ちになって足早にため池の前を通り過ぎることにした。鯉にも申し訳なくて、心の中で丁重に謝った。
昨日も、おじさんはいなかった。
あの怖いお顔のやさしい彼は、今どこで何をしているのだろう。
まだ、鯉たちはおじさんを待っている。