飼っていたハムスターが死んだ話
先日、飼っていたハムスターのサラミが死んだ。
至極わかりにくいが、サラミは名前である。
ハムだけどサラミ、なんていう軽率な名付け方をしてしまった(しかも、女の子なのに!)ことを申し訳なく思っているが、後悔はしていない。もっとも、可愛がりすぎて、わたしも母も「しゃらみ~」と呼んでいたので、今となっては彼女の名前がサラミだったのかシャラミだったのかは定かではないが、一応サラミとしよう。
ちなみに、父は「ハムスター」と呼びながらもまあまあ可愛がっていたように記憶している。
サラミは2018年の夏ごろ、一人暮らしのわたしの家にやってきた。
しかしその後、家があまりに寒すぎて可哀想だ、実家なら常にストーブやエアコンがついているのにという家族の見解の一致により、住処を移動させられることとなった。
以降は、主に実家で母がサラミの世話をしていた。
寝ているのに起こしたり、悪戯で好物のコーンを取り上げたりすると、ハムスターがこんな表情をするのかというほど恐ろしい表情を見せてくれたサラミ。
食い意地が張っていて、誰かに盗られないようにと、与えられた餌を一気に口に入れてさながら饅頭のようになっていたサラミ。
夜中にケージを噛みまくっていたサラミ。
思えば、非常に憎たらしく強欲でアグレッシブなハムスターだった。でも、そういうところが本当に可愛かった。
いつからか、起きるのが遅くなったり、餌を残したりするようになった。夜中もうるさくなくなった。
それでも、まさかサラミが死んでしまうなんて、露ほども疑わなかった。
サラミの死に方は全く劇的ではなくて、なんとなく巣を覗いた時にはもう冷たくなっていて、それから二度とは動かなかった。
いや、正確に言えば、ちょっと生暖かい部分があった。だから、わたしも母もひょっとしたらサラミは生き返るんじゃないかなんて思ってしまって、死んだことをゆるせなかった。
でも、しばらくして恐る恐るサラミを持ち上げると、その顔が死後硬直で歪んでいるのがわかった。不細工だった。生前の可愛かったサラミが思い出されて、こんなに醜いかたちにされてしまったことが悔しくて、わんわん泣いてしまった。死が、すごく怖いと思った。
次の日、サラミを庭に埋めた。
猫にひっくり返されないように、椿の木の下の、深い深いところに埋めた。
埋めたらもう二度とサラミが家に帰ってこれないような気がして辛かったけれど、不思議と涙は出なかった。
天国とか神さまとか、そういう超自然的な存在を全然信じていなかったわたしはいま、天国に行って元どおり、ふわふわであったかくて可愛くなったサラミが、大好きなコーンを飽きるまで齧りまくっているはずだと信じて疑わない。
天国は、死者のためではなく、地上に残されこれからも生きてゆかなければならない人間たちのためにあるのだと思った。
サラミがいま、家で生きていた時よりも幸せでいるのだと信じることで、わたしたち家族もようやく幸せになれるのだと。
まだ、こうしてサラミのことを文に起こしたりすると泣いてしまうけれど、気持ちに整理をつけるという意味では書いてよかったと感じている。
死ぬのは怖いけれど、それまで頑張って生きたい。そして、わたしも天国に行った時にはまたサラミを飼えたらいいな、と思う。
サラミ、たくさんの癒しと、笑いと、幸せをありがとう!
『男はつらいよ』博さんのプロポーズに胸キュン爆発四散
『男はつらいよ』第1作を見た。
父が愛してやまない『男はつらいよ』シリーズ。実家で時たま途切れ途切れに見ていたものの、第1作を見るのは初めて。だったのですが。これが。素晴らしかったの!!!!!
ほんとうだったらね、男はつらいよシリーズの説明とかもしなきゃ伝わらないんだろうけどね、わたしは今興奮しちゃっているのです。
いろんな諸々は省いて、まずはこの冷めやらぬ感動を共有させて。
寅さんが余計なことを言ったせいで勘違いしてしまった博さんが、さくらに別れを告げるシーンのセリフがね、もうもうもう、あまりに詩的で美しくてハイパーウルトラ胸キュンの極みだったので、思わず文字で書き起こしちゃってもいいですかというか書き起こぷんぷん丸します!!!以下!!!!!!
「僕の部屋から、さくらさんの部屋の窓が見えるんだ。
朝、目を覚まして見てるとね、
あなたがカーテンを開けてあくびをしたり、
布団を片付けたり、
日曜日なんか、楽しそうに歌を歌ったり、
冬の夜、本を読みながら泣いてたり。
この工場に来てから3年間、毎朝、あなたに会えるのが楽しみで、
考えてみれば、それだけが楽しみでこの3年間を…。
僕は出て行きますけど、
さくらさんは幸せになってください。」
も〜〜〜〜〜!博さん!!!!!!
わたし、まあこの22年間の長いような短いような人生でいろんな本やら漫画ドラマやら映画やらに触れてきましたけれども、これがベストオブベストでネバーエバーエバーエバーのプロポーズだと思います。
この映画、1969年のものって、もう半世紀前にこんな超ド級の言の葉が紡ぎ出されていたなんて、信じられない。もう、人類ってばプロポーズに関しては進化の余地がないよ…。
まず、「〜たり」連続の部分。
短いフレーズながら、情景がありありと浮かんで来るんです。
そして、魔法のような対比の構造!!
あくびで無防備なさくら、片付けで普段のしっかり者のさくら。日曜日の楽しそうなさくらに、冬の夜のセンチメンタルなさくら。
この4つで、博さんが1年を通していろんなさくらに出会えて、恋をしていたことがしっかり伝わってくる。
極め付けに、「考えてみれば、それだけが楽しみでこの3年間を…。」です。
博さんは印刷工場で働いていて、決してその仕事は楽ではなく、手もいつも真っ黒で。
そんな彼の生活に光を射したさくらへの思いを凝縮したのがこのフレーズ。
きゃ〜〜〜。何回見ても痺れる。びりびり。
人生で1回でいいから、「だけ」って言われてみたくないですか?
わたしは言われたいです。「だけ」の魔力にくらくらやられちゃいたいです。
さて、今回びっくりしたことは、博さんとさくらの馴れ初めってちゃんと描かれてたんだ!ということです。
わたしが見ていた『男はつらいよ』シリーズでは、いつも2人は既に夫婦だった。だからこそ、こんなにも素敵なやり取りがあって結婚したことに驚きました。
こうして考えてみると、身の回りでもう既に「夫婦」として認識しているたくさんの二人にも、それぞれの素敵な軌跡があるんだろうなと。
当たり前の日常に実はドラマがゴロゴロ転がってて、毎日あっちこっちでプロポーズしたりされたり繰り広げられてる、そんな様子を想像すると、世界がめちゃめちゃ輝きに満ち満ちていることに気づく。
そんなきらきらを2時間ずつに切り取っておすそ分けしてくれてるのが、映画だったりするのかなあ。
ここ1週間訳あって学校をお休みしているわたしなのですが、毎日映画を4、5本見ています。
家から1歩も出られないわたしが、カリフォルニアにも土星にも行けるのが映画です。
中でも寅さんが連れて行ってくれる1969年の柴又は、小さいけれどあたたかくてやさしいきらきらでした。これが、いちばん辞められないやつなのね。
絶対、明日『男はつらいよ』第2作を見るな、これは。
容れ物携え宇宙旅行して
容れ物だけになりたい。それも、たくさん穴のあいた容れ物。そうしたら風通しがよくなって、倒れずに済むような気がするのに。軽くてどこへでも持ち運び易くて、それでも倒れないのに。
詰まるところ現状のわたしは、中身ぎっしりなのだ。内臓脂肪とか皮下脂肪とか、寂しさとか期待とか、やることなすこととかで。しかも、挙げ句の果てには便秘だし。
昨日、試しにそういう要らない中身をぜんぶぜんぶ一気に小学校の焼却炉に突っ込んで燃やしてみたら、煙突からのけむりは意外とキラキラしていた。そのままやつらは天まで昇って星になった。すげえ。一方わたしはというと、自らの脂肪や排泄物が光栄なことに銀河の一部になったのに、それでも宇宙に行けなかった。燃やしてる最中に食べたビスコが重くて飛べなかったのだ。残念だ。
あんなに苦労して捨てたのに、今朝目覚めたら、もう体には元のように色んなものがぎっしり詰まっていた。これじゃ宇宙に行けないよと、藻搔いて苦しんで、そういう焦りがまた重力になって、わたしを地球の表面にへばりつかせた。残念だ。
せめて夢のなかだけでも飛びたい、そんなときに使えるのは、意外にもフランキンセンスの入浴剤。自宅のお風呂で楽しめるお手軽トリップで視界は煌めき、ついに容れ物だけになった身軽なわたしは、やっぱり簡単に宇宙に行けた。手始めに行った火星の空は真っ赤。夕焼け、青くなってく世界に照らされて、地球と真逆じゃんね、なんて笑って、見つめあって、キスしたのは名前も知らない人だった。どこから来たの、と聞いたら月出身だなんて、もう会えないじゃないか。なんてったって、月からのお迎えに逆らえないのは地球でも有名な話なのに。ああ、使者が来る前にかぐや王子とあれやこれやと滅茶苦茶に…なんてもたもたしているうちに香りが切れて、あっという間にトリップは終了です。いいところだったのに。
さて、きっと明日も容れ物だけになれないわたしが、飛べずに墜落するのはまた病院なので、ついでに実習でもしてくるはずです。毎日えらい。
おとといのプリン
おととい食べたプリンがとっても美味しかった。
ただのプリンじゃなかった。なんてったて、そのプリンはわたしに春をもたらした。
我こそがスプリング代表ですと言わんばかりのうすピンク色のプリンはいちご味で、下に待ち受けるこいピンク色のソースもまたいちご味だった。あまいいちごと酸っぱいいちご、夢の2層構造。
最初はあまい部分だけ食べる。おいしい。次に、そーっと下の方を掬ってみる。おいしいい。最後は、思い切ってぐちゃぐちゃにした。おいしいいい。
だいすきな人が買ってきてくれたプリンだから、なくならないようにゆっくりゆっくり食べた。それでも、あっという間にプリンはなくなってしまった。悲しかった。
そういう時にわたしは、時間を巻き戻す力がほしくなる。できれば、プリンを食べ始める瞬間からじゃなくて、プリン買ってきたんだよって自慢げにしているところから、再生。なぜならその顔がすっごく可愛かったから。なんなら、そこだけの2時間耐久動画、見続けたい。ああ、神様おねがい!
なんて願っても瞬間は一度きりのもので、食べ終わったらすぐ解散です。桜が散るみたいにあっけなく食べ終わったプリンと過ぎた時間を惜しみながら、かゆい目こすって鼻ずびずびすすって自転車で帰る、そんな3月の夕暮れ。
プリン、打出の小槌で無限に出てきたらいいのに。ついでに、無限になんて言わないから、1回だけでも朝から晩まで会ってみたいのに。
でも、「如何して君はひとりしかいないの?」って問いかけは、椎名林檎先生ですら答えを持ち合わせていないみたいで、いわんやわたしをや。永遠を望んだ瞬間世界は滅亡、なのです。あーあ。如何してプリンもひとりいっこしかないの?あーあ。
美味しいものって、いつも、滅ぼすのは自分からなのね。
2020年の目標
明けましておめでとうございます。
ワーイ新年だ〜〜〜(((o(*゚▽゚*)o)))
ということで、2020年の目標を立てておきます!
2019年は香港で携帯を盗られたことにはじまり…
新年明けて15分でiPhone盗まれた話 - ばんぎゃる医学生ちゃん!
そのほかにも、ギリシャで財布を盗まれたり、学校内で自転車を盗まれたり、クレジットカードを不正利用されたりなど、おそらく何かに取り憑かれておりました。貞子かな。
そんなこんなでバタバタしていて目標の一つも立てられず漫然と生きていたわりには、CBTもそこそこ満足できる成績で合格し、部活も順風満帆、友人もたくさん増えて、なかなかに良い1年であったと思います*\(^o^)/*
恋愛のほうは相も変わらず、2回も迷走してしまいましたが…
そんな2019年よりさらにビッグでハッピーになるはずの2020年の目標は5つ!
- 実習休み 0!健康!
- 筋肉量アップ
- 友達とたくさん遊ぶ
- 見識を広める
- 今年こそ一途な女になる!
です。全部守っていい女になれるよう頑張ります。
個人的にはとくに5番を絶対守りたいです。
では!今年もよろしくお願いします。
推しとの距離感が難しいのですが。
推し。それは人の生きる意味。
まず、推しがいるだけで、朝の目覚めが違う。
「神様、お父さん、お母さん、時間的空間的に推しと共に存在できる世界線に産み落としてくれてありがとう。」
そんな気持ちでカーテンを開け、陽の光を浴びるのだ。
そして、1日の終わりにも、もう一度感謝を噛み締める。
「推しよ。きょう一日を乗り切れたのも、あなたのおかげです。アーメン。」
同じことの繰り返しのつまらない毎日でも、推しとの妄想が彩を与えてくれる。
しかし、どんなにめくるめく妄想を繰り広げたとて、推しは恋人とは全く似て非なるものだ、ということを全オタクが理解しなければならないことは周知の事実である。
推しは、あくまで推し。
感謝や崇拝の気持ちこそあれ、依存、ましてや見返りの気持ちなど求めてしまっては、ただのストーカーである。
そんな戒めを常に心に抱いていた私だったのに。なのに。
…好きになっちゃったー!!!!!
オタク大失敗。
こんな取り返しのつかない気持ち、どうしたらいいのやら。
敗因はただひとつ。推しと近距離接触をしてしまったことにある。
だって、目合わせて喋ってくださったりだとか、ストロング激カワドヤ顔のとき顔近づけてくださったりだとか、ふとした瞬間の上目遣いとか。笑顔も困り顔もちょっと眠そうな顔も。
どこぞの乙女ゲームでお会いしましたか…?
というほどの、「え?これ夢?一生覚めんといて???」な萌えof萌え行動が同時多発テロしちゃって、オタク爆死不可避ーーー!!!
ということで軽率に好きになっちまったのですが、もう辞めたい。辞めちまいたい。
変なアピールして嫌われるくらいなら、一生オタクしてたかったもん。
でも、たった一度でもあんなゼロ距離でドキドキさせられたら、またドキドキしたくなっちゃうのが人間ってもので、もう戻れないんだよね。うう。さながらヤク中である。
もうこうなったらがんばるしかない。
もっと可愛くなりたいし料理上手になりたいし面白い話も提供したい。
すっごくがんばってそれでダメでも、気持ちは続いちゃうと思うから、その次もっとがんばりにがんばる。
諦めたらだめだよ。
思い立ったらなんとやらということで、さっそく明日早起きしてジムに行くと決意。
行けたら…だれかほめてね……
1,800キロカロリーのセイカツ
1日1,800キロカロリーを失って、同じぶんだけ摂取することで命を永らえさせている。
白くて頑丈な大きなコンクリートの中に均一にくり抜かれた程よい大きさの箱のなかで、1匹の生命体だけで、毎日休むことなくただエネルギーを出し入れするのは、なんだかおかしいことだ。
1,800キロカロリーは、別の系から運んできてそのまま口に入れることもあれば、気まぐれに煮たり焼いたりといった加工を施すこともあるが、あくまで1,800キロカロリーである。
箱のなかでの行動は、エネルギーの摂取だけでは止まらない。
身体や衣服を清潔に保つための行為。
はたまた、箱自体を整然とさせる行為。
これらは、生命の維持には全く関係がないように思われるが、人間の「セイカツ」として休まず続けなくてはならない。
セイカツは、放っておけばだらだらと流れていってしまう一見不可逆な方向性の変化を、元に戻す行動だ。
すなわち、息をするだけでエネルギーを枯渇させ、汗をかいて、箱を汚くしてしまう私は、セイカツをしなければならない。
時々、1匹だけでセイカツをすることが怖くなることがある。
砂のように流れていく様々を掬っては戻し掬っては戻しての24時間を7回繰り返しても、また砂は同じように流れる。
箱のなかで1匹で暮らす個体は、ただその1匹、自らのためだけに砂を休まず運ばねばならない。もはやそこに、役割はない。
どうしてそんな仕事が課せられてしまったのか、考えてみても一向にわからない。役割がないセイカツは、ふと辞めてしまいたくなりそうで、怖い。
そんな時は、この先体内に宿すであろう、別の生命体のことを考えてみる。
体内の生命体にはコードが繋がっていて、私は1,800キロよりやや多めのカロリーを摂取するセイカツで、同時に2匹の生命を永らえさせる。
生命体が体外に出た後は、今より大きめの箱のなかで、3匹の個体が群れをなしたカゾクを形成したい。そうすれば、「ツマ」であり「ハハ」であるという2つの役割を獲得し、より何も疑問に思わずセイカツできるはずだ。
そんな素晴らしい営みに思いを馳せると、自分が「コ」であったことを思い出す。
大きな箱のなかで、私は今まさに思い描いているようなセイカツをしていた。
役割が変わっていくだけなのだ。
「コ」が「ツマ」「ハハ」になり、やがて「ババ」になって、静かに火が消える。
私たちは、その間ずっと、世界への抵抗を続ける。
放っておけば腹が減り、部屋は汚くなり、服もシーツも枕も臭くなっていく、自然な流れに必死に抗ってセイカツすることで、DNAにプログラミングされた「個体の複製」を連続させていくホモ・サピエンス・サピエンスの、なんと可愛らしいことだろうか。
そして私もまた、丸い地球の上でセイカツし続ける可愛いホモ・サピエンスの構成員であった。
「早く役割がほしいね」
なんて、箱のなかの共同セイカツ者、クワ科イチジク属インドゴムノキに呟いて、皿を洗う。